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「まだ早いだろ」
玄関ホールに降りてきた金光は明らかに不機嫌な調子で言った。袋田の勧めもあって、折角だから朝風呂でも浴びて、飯も食っていこうかと考えていた。だが秘書は、今すぐに、と急かす。到着してから金光の仕度を待っている間ももどかしかったものである。
「お電話でも少しお伝えしましたが……」
枝野というこの男は、主人の腕を取らんばかりに車へと促した。金光はそれを嫌ってノロノロと靴を履く。
「なんの問題だ。揉み消せよ。大体なんの為にお前がいるんだ」
人目もはばからずに広言する。この男は元来不真面目だが、ここ近年はそれに輪を掛けて働く気がない。だから大抵の処断も秘書に任せっきりだった。
枝野は、詳細はあくまで車中で、とここでの説明を避けた。それが結果的に勿体ぶるような格好になって、金光はなおイライラとした。
「オレが出る程のことなのか」
ブツブツと愚痴りながら、袋田らに挨拶もせずに車に乗り込む。
「実はご家族の問題で……」
「あ? 家族が? お前になんの関係がある」
「いえ……申し上げにくいんですが……その……」
「早く言えよ、早く」
「奥様がですね……」
「ん? 奥様?」
そこで金光はピンときた。両者黙って目を見合わせる中、機先を制して金光が言った。
「浮気か」
「……はあ」
「クッソ、あのアマ! 散々金やってりゃいい気になりやがって」
ドン! と前のシートを蹴飛ばす。腹立たしいことこの上ないが、妻を盗られた悔しさよりも、目下の関心事は事後処理だ。秘書が出てきたということは醜聞が世に出るという意味で。
「どこの記事だ。それこそ揉み消せないのか」
「いや……記事じゃなくてですね……ネットで」
「ネット?」
そういう事情には一向疎い彼である。
「はあ、ネットに浮気の、その……現場というかですね……が、出回りまして」
それがどれ程の影響をもたらすものなのか、いまだに金光には分からない。そこでとりあえずと、現物を確認するしかなかった。
「今あるのか、それ」
「ええ……まあ……」
「見せろ」
「え、み、見られますか」
「いいから見せろよ、早く」
枝野からタブレット端末を奪い取ると、金光は教えられて件の動画を再生した。それはつい昨日の朝撮影されたばかりの、例の教室内の情事だった。彼は眉間に深い皺を寄せて画面を凝視していたが、
「おいコイツ、あの弁護士か!」
と、顔を上げて秘書に怒鳴った。ずっと運転席から半身を向けている枝野、決まり悪そうに頷き返す。動画内には、有紀と前原の絡み合う表情がバッチリと映っていた。
「カーッ……あの野郎」
金光の脳裏に昨日会った前原の顔がまざまざと思い出される。通りで熱心に来ていたものだと、全ての線が繋がった。自分が間抜けな役回りを演じさせられていたことにやっと気づいたものだ。そもそも妻に関心が無いから疑いすら持たなかったのである。
「おい、そういやアイツどこ行った。夕べ泊まったんじゃないのか」
思わず振り返って窓から大輪館を窺う。
「いえ、もう出ていった後でしたね」
「チッ、クソが」
金光はもう一発、ドンと座席シートを蹴った。
「それで? これどうすんだ」
「それがその、既に昨夜から“祭り”状態で」
「あん?」
知らない言葉が出てくるとイラッとする。
「かなりネット上で炎上騒ぎになっていまして」
「知らねえよ、消せよ! これ……どこに出てんだか知らねえけど」
「いえもう、どことかいうレベルではなくて」
「うるせえな! なんとかしろ! お前の仕事だろうが」
金光は言うが早いか、枝野の後頭部を掴んでハンドルへ叩きつけた。ドン、ドン、ドンと三発やって、さらに平手で頭を殴る。
「と、とりあえずですね、ご自宅の方にお送りします。事務所も“電凸”……で、電話が鳴りやまない状況で……」
枝野は涙目になりながら必死で言ってエンジンを掛けた。
*
やっとの思いで帰宅した前原は、顔を洗って着替えると、結局一睡もしないで出勤した。事務所に着いてみると、周囲の人間が皆自分に妙な視線を送っているのに気が付く。早速親しい同僚に問い質してみようとした矢先、彼は所長に呼びだされた。
「どうだった向こうは」
「ええ、滞りなく用件も済みまして」
本当は散々な目に遭ったわけだが、それを報告する必要はない。ここまでは日常のやり取りだった。
所長はおもむろに書類を出すと、デスクに広げたそれを黙ってトントンと指で弾いた。見ろ、という意味なのは明らかで、前原は素直に覗き込む。直後、その目が見る見る見開いていった。それはよくある週刊誌のスクープ記事だったが、問題はその題材で。
「朝一で届いたよ。さすがに大手は仕事が早いね」
間もなく全国で発売されるという。すなわち、ある町議会議員の夫人と顧問弁護士の密会、いや密会とは生ぬるい、生々しい営みの写真だ。ご丁寧にも文章では行為の順序まで下劣にも書き綴られている。名前は伏せられ、顔に目線こそ入っているが紛れもない。
「これ……君だね?」
「違うんです」
そう言いたかった。が、これがここに届いていて、それを目の前に突きつけられたということは、つまりそういうことだ。前原は力なくうなだれ、もはや返事をする気力も失った。すると、所長が励ますように言い出した。
「いやなに、君を責めるつもりはないんだよ。むしろ――」
彼は立ち上がって前原の肩に手を置いた。
「よくやった、と言っていいのかもしれない」
言われた方が意味を解しかねて不安気に相手を覗き込むと、所長は親切に応えてくれた。曰く、彼は金光の政敵側の人間と懇意にしていて、今回のスキャンダルは結果として彼らを利することになったと。これを皮切りに続々と不祥事を暴く流れに繋げ、最終的には金光を失脚させるのが狙いだということだった。何しろ叩けば出るほこりは随分と多い体なのだ。
「君も聞いているか知らないが、あの人のおじいさんがね、これがかなりしたたかで、二代目に継がせた後も院政を敷いて、その間は地盤も盤石だったんだが、亡くなってからね、いわゆる二代目で傾き、三代目で潰すを地で行くような有り様で」
昨今では金光家に対する風当たりもようやく強くなり、従来あちらサイドだった連中も見切りをつけ始めているという。
前原はただただ聞いていたが、正直な所己の身の上が心配過ぎて、話はいまいち頭に入ってこなかった。それを目ざとく察して、所長は記事の方に改めて目を落とす。
「しかし学校というのが少々まずかったな……しかも運動会の最中とは……幾らかうるさい偽善者が湧いてくるだろうが」
またしても不安にさせるようなことを言ってみるも、すぐに向き直り、
「まあ、なんとか抑え込めるさ。危惧する程のスケールにはならないよ」
と話してニコリと笑った。さらに、
「しかし君も案外大胆な男だね、ハハハ」
と付け足して大いに笑った。つられて前原も微かに口角を上げたが、笑っている場合ではないだろうと自身をせせら笑っていた。
〈つづく〉
〈現在の位置関係〉
▼自宅
有紀、佳彦、清美、瑞穂
▼車中
金光、枝野
▼事務所
前原
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