「うちの母ちゃんなんかどうだ」
加藤の言葉がさっきから隆の頭の中をグルグルと回っている。一滴も飲んでいないはずの酒なのに、まるで匂いだけで酔ってしまったかのようだ。相手は何かしゃべり続けているが、まるっきり耳に入ってこない。
どうしてそんな話になったのか。付き合っている女はいるのか、好きな女はいるのか、お節介な年配者らしいそんな話題を向けられて、いずれもいないと答えたら、挙句これまでに交際したことがないこと、開けっ広げに言えば、女性経験がないことを白状させられた。といってもまだ十九の自分にとって、はっきりした焦りはないのだ。
「ダメだよ、それじゃ」
だが、加藤は言う。女を知ってからが男だと。そうして身に付いた度胸こそが勝利を呼び込むのだと。
「はあ」
いまいちピンと来ていない風の隆に業を煮やした加藤、
「よし、明日吉原連れてってやろう」
と、ソープランドへ誘った。奢ってやるから度胸を付けてこいというのだ。
「発表見に行ってな、その後直行だ。受かっても落ちてもソープ。決まりだ、な?」
隆は、そもそもソープランドというものを理解していなかったので、まずはその説明から聞くことになったが、どういう店かを把握するや、途端に難色を示した。いわゆる風俗営業というものを犯罪まがいに考えていた彼は、そのような場所に首を突っ込むことを大変問題視していたのである。
「なんだよ、お堅い奴だな、お前は。こういうのは勢いが大事なんだぞ」
呆れ顔の加藤を見て、しかし隆は軽蔑はしなかった。この親戚の小父はどこか憎めない愛嬌がある。
「じゃあ何か、一人でシコシコやるばっかりか」
あくまで下世話な男だ。自分には真似出来ないあけすけさがある。ただ、そこに微かな憧れがあった。こういう人がいてもいいんだと思った。
隆は頭を掻いた。性欲はもちろんある。それで相手がいないのだから、やることは自然と決まっている。言わずもがなだが、言葉に出して言うのはまだ恥ずかしかった。
自慰は二日と置かずにする。勉強で机に向かっていても、つい気が緩むと弄ってしまう。もう思春期でもあるまいしと僅かに考えないでもないが、到底やめることは出来ない。この家に来てさえ、やったことがある。
去年、そして今年と二年続けて泊まらせてもらった。受験の度に上京して、この親戚の家に世話になっている。加藤は下品な男だが隆の志望校でもある最高学府出のエリートで一家の信頼は厚く、彼の影響を受けられればとの望みもあって、両親が頼み込んだものだ。ところが、昨年は惨敗。すると今年は加藤の方から打診してきてくれた。
「俺の後輩になるわけだからなあ」
そう言って歓迎してさえくれたものだ。彼の妻も同様に前向きな姿勢を見せてくれた。内心では面倒ごとだと思われていても仕方がないが、そういう素振りは微塵も見せなかったから、日頃の明朗な性格を勘案しても、あるいは本気で応援してくれているのであろう。そうだといいと隆は思った。
こうして恥を忍んで二年連続やってきたわけであるが、もちろん一念発起して勉強に勤しんできたわけで、今年にかける思いは当然強かった。だからこそ、合格発表も現地で確認したいと、わざわざ再上京を決意したのだ。実際先日の試験の出来は我ながら自信を持てるものだった。そのことを加藤に話すと、当初は一人で日帰りする計画だったところが“水くさい”と言われ、試験の日に続いて発表の日もと、短い間に再び訪問することとなったのが今日である。
「よし前祝いだ」
加藤はもう合格を決め込んで、発表前夜から盛大に宴会を開いた。彼の妻もやはり協力的で、食卓には美味しそうな料理をうんと並べてみせた。隆はまだ酒を飲める年ではないし、人生の懸かった明日を控えて緊張もしていたのであるが、あっけらかんと大騒ぎする加藤の相手をしていると、次第に気持ちが緩んできた。この小父は、前回の時もそうだったが、およそ落ちるという想定をまったくしていない。自分自身一発で合格したからというのもあるが、昨年の結果が出た時の驚きようといったらなかったものだ。
「もう、隆君は明日があるんだから、程々にしときなさいよ」
小母は夫の能天気さにほとほと呆れ返った様子でそう言い残すと、自分だけ先に寝室へ行ってしまった。明朝から仕事があるらしい。去る前には再三再四宴の終了を促していたのだが、加藤は取り合う気配がないし、隆も気を使って亭主を立てたので、とうとう折れざるを得なかった。
妻が去ると、加藤の本領発揮で、ここぞとばかりに女の話である。それで隆は童貞であることを告白、果ては風俗店へ連れられそうになったわけだ。
「そうかあ。しょうがねえなあ……」
加藤はこの硬派な親類にさすがに手を焼く風だったが、つまらない奴だとは言わなかった。なんだかんだ言っても、気に入っているのである。
「童貞なんかなあ、大事にとっといたってなんの価値もないぞ。プロでも相手にとっとと捨てちまった方がいいんだ」
まだ諦めきれず、諭すように持論を吐く。だが、隆は賛成できかねた。お金を払って無理矢理済ませるなんて、ズルいやり方ではないかと思ったからである。すると、そんな疑問に答えるように、加藤は続けた。
「誰としたって、セックスはセックスよ」
そうして、半ば投げやりに言い放った。
「うちの母ちゃんなんかどうだ」
「え?」
「母ちゃんだよ」
加藤は頭を後ろに振って、妻の去った方を指し示す。
「あいつに筆おろししてもらうか」
「え……」
隆は絶句した。間違いなく冗談だろうとは思ったが、あまりに唐突過ぎて固まってしまった。
「なんだ、あいつじゃ抱けないか」
「い、いえいえ」
ここで加藤はようやくガハハと笑った。
「まあ、お前からしたらババアだよな。あんなおばちゃんじゃ、年が離れ過ぎてるか」
結局それで話は流れ、話題は別な方面に飛んだ。
だが、隆はドギマギとして、そこから頭が付いていかなかった。加藤は年が離れていると言ったが、そこは問題という意識がなかった。彼の妻、和子は夫と同世代で、現在四十ちょうどだが、ショートヘアーのよく似合う利発そうな顔立ちの、隆から見れば、間違いなく一般的に認められる美人の部類であった。だから、若く見えるとかそういうことではなくて、年上なのはわきまえた上で、好意を持って見ていたのである。
何しろ昨年訪れた折には、彼女の美しさ、優しさに打たれ、しかも例による歓待の卓上で、カットソーから覗く胸元がチラリと目に焼き付いてしまった為に夜中悶々としてしまい、とうとう場所柄もわきまえず、布団の中でごちゃごちゃとしてしまった。結果からすれば、それが前回の敗因だったと言いきれなくもない。
先程話が出た時、ひょっとしてその件がバレたのか、少なくとも奥さんに下心を抱いていることは見抜かれたのかと思って焦ったものだ。あれは、探りを入れただけなのか、隆は疑心暗鬼になった。
「(でも、ひょっとしたら……)」
とも考える。万事想定外の小父のことだから、半ばは本気で薦めていたのかもしれない。だとしたらチャンスだったのでは、と。
「(いやいや、そんなわけはない)」
合法的に他人の妻を抱くなどというシュールレアリスムは、隆の見聞になかった。
「おい、聞いてんのか」
「へ?」
ふいに咎められて、隆は相手を見た。呆れた顔で加藤が覗き込んでいる。
「もうそろそろ寝るか」
隆はなお悶々としている。ここで布団に入れば、またもぞもぞしてしまうだろう。いや、先日は試験前だったからこらえたが、それも終わった今、思う存分愉しみにふけっても良いわけであるが……
「どうした?」
立とうとしない様を見て、加藤が問うのに、隆は考え考え話しだした。
「その……明日の結果が、気になって……」
「なんだ、気にしたってしょうがないじゃないか。もうやるべきことはやったんだから。手応えもあったんだろう?」
「はい」
全くの正論である。
「その……やっぱり、度胸っていうか、お、女の人と、その……経験っていうか、し、知ってた方がいいですか?」
加藤は“女”と聞いて「おっ?」という顔をしたが、次第にニヤニヤと笑い始めた。
「なんだ、やっぱり興味あるか。明日行くか、吉原」
「いや、そうじゃなくて」
「なんだよ」
「結果発表の後じゃ、意味ないっていうか……」
「ああ……」
加藤は“なるほど”という表情を浮かべた。彼にとっては合格祝いというつもりだったのだが、聞けばなるほど、勝ち運をつかむ文脈上、結果を知る前に勢いを付けた方がいいのかもしれぬ。
「“願掛け”ってやつか」
加藤は壁掛け時計を見た。既に十時を回っている
「しかし今からじゃなあ……」
あくまでも風俗店を念頭に置いている彼。この時間から向かうのでは遅すぎると思った。
「もっと早くに言ってくれればな」
そんな風に嘆いたがそれは理不尽である。そもそもそういう考えを披歴し、隆をその気にさせたのはついさっきなのだから。
隆の口の中では、「おばさん」という単語が充満していたが、それを吐き出すことがどうしても出来なかった。だから、なんとかもう一度あの提案をしてくれないかと願った。しかしそう易々と相手に伝わるものではない。
「今からなあ……しかし、そんな都合のいい女の当てもないしな……明日の早朝とか……それも難しいか……」
加藤は腕組みをしてブツブツ言っている。こういう所、親身になって考えてくれる男である。だが今回は手に余る難題だった。
「ああダメだ! いくら考えても時間が中途半端だな。やっぱりもうアレ位しかいないわ!」
バッとのけ反って、笑いながら指差したのは、妻が眠る寝室らしき方角である。
「(それだ!)」
隆は目を輝かせた。
「(さあ、言え! “うん”と言え!)」
心の内で自分をけしかける。だが、ほんの後一歩の踏ん切りがつかない。ここで飛びついて、白けさせたらどうしよう、下手をすると怒られるかもしれない。そう懸念するとどうしても踏み出せない。
「(もしかしたら本当にチャンスかもしれないのに……)」
こういう時、性欲で頭に血が上っている男は冷静でいられないものである。隆も多分に漏れず、あるはずのない夢を追っていた。それでも行動に移すまでには至らなかった。
しかし、この時の彼の内心は面に出過ぎていた。
「お前」
「え」
「うちの母ちゃん」
「な、なんですか」
加藤は目を見開き、口角を大きく上げてしばらく固まった。やがて、一気にそれを氷解させると、決定的な解答を突き付けた。
「うちの母ちゃんとヤりたいの!?」
「え、いや!」
「知られた!」という事実が隆の心臓を鷲掴みにする。願った結果だが違う。
「お前、アイツのこと好きなの?」
加藤は急に声を高くした。同時に立ち上がっている。
「ち、違う違う、違います!」
「なんだよ、違うって」
隆も立ち上がって、加藤の腕を掴んで否定しにかかる。それを加藤は振り払い、なおも声高に喧伝した。
「オレ、言ってやろアイツに。“隆君がお前に惚れてるってよ”って。アイツ喜ぶぞ」
彼は放っておくと今すぐにでも寝室へ駆け上がりそうな勢いだった。隆は必死に抱き着いてそれを阻止する。加藤はそれを振りほどいて逃げる。隆はまた抱き着く。こんな追いかけっこを二人はしばらく繰り返した。
「違うってなんだよ。じゃあ、ヤらしい目で見てたってこと?」
「いや、そうじゃ、そうじゃなくて」
いい大人がハアハアと息を切らせて若者を茶化す。彼にとって、硬派で純情な子がようやくデリケートな部分をさらけ出したことが、大変面白かったのである。可哀そうに、後輩は格好の餌食であった。
ようやく疲れて座り込むと、まだまだ体力旺盛な隆が組み付いてきそうにするのを「分かった、分かった」となだめて、加藤は一息ついた。顔を真っ赤にしている若者を見ると、少しやり過ぎたかな、という反省もあって、また少し考えてみる。いまだ、妻に気があるという意外過ぎる事実を信じきれないが、もしそうならどうすればいいかと。
だが、考えるだにおかしくて、またクスッと思い出し笑いをしてしまう。過敏になっている隆がビクッとして腰を浮かそうとするのに、加藤は「スマン、スマン」と目で応じた。
「けどなあ、さすがにセックスはなあ……」
「あ、当たり前ですよ! そんなこと言ってないじゃないですか」
隆は今さら信用を取り戻そうと早口でまくし立てたが、今や完全に逆効果であった。
「(うわあ、ちょっとマジだったじゃん)」
加藤は若い心情を手に取る様に察する。二人、一瞬沈黙して見つめ合い、直後に“アハハ”と取り繕うように笑い合った。
「親戚だしな。これからの付き合いもあるからな」
「だ、だから……!」
念を押されるように諭されると、ひと際恥ずかしさが増す。失敗したという後悔が大きくて、期待外れの落胆も上回った。
「(ううう、ハめられた……)」
自分から穴に落ちておいて、隆は恨みに思った。
だが、ここで終わらせないのが、加藤の規格外な酔狂である。
「願掛けなあ……」
まだこだわっていたこの男。その脳内で、突如“名案”が閃いたのである。
「願掛け! よし!」
膝を打って隆の肩を引き寄せると、今度は一転声を潜めて、ある作戦を伝授した。それを聞くだに、
「エー!」
と、たちまち隆が身を引いて、眉をひそめる。加藤はその首に腕を巻き付けて抑え込んだ。
「バカ、お前、大きな声出すな。いいか、受かりたいんだろ?」
「はあ、でも……」
「願掛けなんだよ、願掛け。儀式だからな」
「いやあ……」
いくら言われても、突拍子なさ過ぎる話に、隆は首をひねっている。
「お前……人の女房なあ、スケベな目で見て、冗談でもそういうの、アレ……ダメなんだぞ」
「(いや、冗談を言ったのはアンタだ)」
と隆は思ったが、また面倒になりそうなので黙っていた。
「どうせお前、アイツでオナニーとかしてたんだろ」
「し、してませんよ!」
「してない? あ、そう。してないの」
「しませんよ」
「お前……ちょっと起ってんじゃないの」
それまで静かだったのに、また急に声を上げて、加藤は隆の股間を握ろうとした。隆は俊敏に腰を引いてそれを避ける。その素早さたるや電光石火のごとしであった。
ともあれ、結局言いくるめられた格好で、隆は“作戦”を実行することになった。いや、本心では期待感と高揚感がある。当初の当ては外れたが、それはもう元来あり得なかった話で、この妙な機会も貴重な体験である。ただあくまでも、“おじさんの酔狂に付き合わされている”というスタンスは崩さなかった。
「で、それ、何持ってるんですか」
「これはOSの入っている携帯電話で……」
「それは知ってます。なんでわざわざ取りに行ったんですか」
「決まってるじゃんよ。撮る為だよ」
「エー」
「分かってる分かってる、お前の顔は写さないから。撮るのはチ○ポだけ」
隆はそれ以上、この妙にテンションの高い小父に逆らわなかった。
二人は間もなく、寝室の前に着いた。
「バレたら一緒に謝ろ。“テッテレ~”って」
隆は何も返さず、ドアノブに手を掛け、そっと回した。中はおあつらえ向きに常夜灯が点いて薄っすら明るい。お陰で迷うことなくベッドの横まで来られた。
「(うわあ、遂に来てしまった……)」
心臓の鼓動が早鐘のように打つ。その脇を加藤に小突かれた。とんでもない悪ふざけだ。この人は本当に頭がおかしいのかもしれない。
ズボンの前を開く。トランクスのゴムに手を掛ける。それまで隆は、こんな状況では役に立たないのではないか、と考えていた。しかしそれは杞憂だった。露出した陰茎は硬く、いつもにも増して力強く勃起していた。自分も変態なのだと、彼はこの時自覚し、それと同時に半ば開き直って、心を楽に構えた。
「始めろよ」という体でまたぞろ主人が促す。既にその手にはスマートホンが掲げられている。いつから回していたのか、開始の音は聞こえなかった。
隆は竿に右手を添えた。はっきり言って、即座に噴射しそうだった。異常な程彼は興奮状態にあった。
和子はこちら側、左肩の方に体を倒して、スヤスヤと寝息を立てている。これが向こう側を向いていたらどうかと少し考えたが、おそらくその場合もそちらに回り込んだだろうから結果は同じだ、などと意味のないことを考えて隆は僅かでも気を紛らわせる。和子の顔に化粧気はなかったが、ぼんやり暗い中に浮かび上がる横顔はどこか幻想的で、とても美しかった。
ただその美貌を冒涜すべく、己は人として最低に下劣な行為に及んでいる。無辜の女性の寝顔を前にして勃起ペニスをせっせとしごいている。心優しく接してくれる小母さんの恩を仇で返すような行い。
「(何やってんだ、オレ……)」
情けなくて、じわりと涙まで浮かんでくる。だがそれに反して、彼の欲棒は益々いきり立っていた。
考えてみれば、かつてこの家でこの人を思って手淫をした時点から、既に人の道に外れていたのだろう。あの晩以降も、自宅で何度もこの人でオナニーに勤しんだ。なんとなれば、この人にもう一度逢う為に勉強を頑張ってきたのかもしれない。
「(おばさん、ごめんね……)」
思っていた以上に高い鼻筋、目蓋に刻まれた二重の線、ふっくらとした白い頬、そこにサラリとかかる柔らかい髪、ぽってりと膨らんだ下唇の稜線、そういった普段ではマジマジと見つめる機会がないだけに、新しく発見する美点が数々ある。和子の顔は今どんな“オカズ”よりも昂らせる素材だった。
隆は次第に一定のスピードや同じ動きではなく、緩急や変化を付けて手を使った。傍目にも完全に彼はオナニーしていた。早く済ませることこそ望ましいと知りながら、他方で限界まで楽しみたい葛藤が彼の中で渦巻き、やや後ろめたき要請の方が優勢であった。
その時、加藤の手がぐっと隆の腰を押したので、彼はギョッとして振り返った。その意図は、もっと近づいて立て、というものであった。この夫、酔狂が過ぎる。その表情もまた、異様な興奮に満ちていた。
十五センチ、十センチ、五センチ……近づける。もうにおいをかがせてしまうだろう。起きても不思議ではない。
「(ああっ、息が、かかる!)」
隆はもう駄目だった。諦めてラストスパートをかける。左手で玉袋を揉み、右手を激しく上下して摩擦した。
「(も、漏れるぅっ!)」
それは発射というより正に漏らしてしまう感覚に近かった。我慢出来なくて粗相をしてしまうあの感じ。
刹那、若い精液は勢いよく飛んだ。一筋目は顔を飛び越え、耳の上の髪の毛にかかった。二筋目は頬骨からこめかみの上、三筋目から四筋目と感覚が短くなるにつれて飛距離も縮まり、鼻筋から目頭の窪み、小鼻から上唇、その後は連続でボタボタと垂れ、唇の間から顎にかけて汚した。その後また少し飛び出て、それらは枕に接地している顔の方へと流れた。まったく、一人の量にしては豊富に出たものである。
隆は自分で汚した和子の顔面を見つめた。少ない光量でもはっきり見て取れる位、顔中白濁汁でドロドロになっていた。これが加藤の言う“願掛け”の正体だった。これで願いが成就するのだと。今となってはシャレにもならないと思った。
「(オレは、なんてことを……)」
射精後の鎮静化とも相まって、彼は頭がボーっとしてきた。それが後悔に陥りそうになった時、加藤が腕を引っ張った。退散だ、との合図だった。我に返った隆は、そそくさとズボンを上げて部屋を出た。
階下に戻ると、加藤はティッシュボックスを手渡しながら言った。
「お疲れさん、シャワー浴びるか」
隆は黙って受け取ると、まだ呆然と立ち尽くしている。それを見て、加藤はさらに言った。
「心配すんな。アイツは心が広いから、バレても許してくれるよ」
それを聞いて、後輩は初めて、
「(こんな大人にはなりたくない)」
と思った。
それでも若者は、シャワーの最中にもう一度自分で自分を鎮め、その後も眠れぬ夜を過ごした。
翌朝、最大の不安は、どんな顔をして彼女に挨拶したものだろうかというものだったが、その懸念は肩透かしに終わった。彼が起きるより早く、和子は出勤していた。テーブルにはちゃんと朝食が用意してある。
加藤は朝から元気で、昨夜と変わらず饒舌に話しかけてきて、言葉少なの隆を半ば辟易とさせた。もっとも、今日休みの彼は会場まで車で送ってくれたのでありがたくはあった。
「大丈夫だよ、受かってるって。昨日“願掛け”したからな!」
肘で小突きながら車から送り出す。そんな彼を背に隆は、
「(この人には一生敵わないだろうな)」
と思った。
試験の結果は合格だった。もちろん嬉しかったが、こうなるともはや、昨夜の出来事が衝撃的過ぎて、考えるのはそのことばかりだった。缶コーヒーを飲みながら、彼はあの時の和子を思い浮かべ、股間を中心にブルブルと身震いした。
ところで――
この日の早朝、いや未明に、一人の女が洗面所で舌打ちしていた。
「あいつら、やりやがったな」
洗顔だけで済ませるはずが、結局髪も洗わなくてはならなかった。
「取れにくいんだよ、髪にかけんなよな」
一人でブツブツ言っている。
リビングで二人が追いかけっこをしていたあの時、彼女は目覚めた。そして、そのまま起きていた。さらに、待ってやった、終わるのを。こういう所、夫の言いたかった“心の広さ”である。
「ほんっとにもう! 枕も洗わなきゃだし」
実は過去に夫には同じ悪さをされた経験があるのだ。
「でも、あの子、大丈夫かな、ピュアだし」
隆のことは責めない。馬鹿々々しくはあるが一応“願掛け”というシャレもあるし、実際に合格してほしいし。それに、自分に気があることは前からとっくに知っていた。それは悪い気がしない。
但し、夫は許さない。
「隆君をそそのかして。ほんっとに」
今は、奴にどんな罰を与えて懲らしめてやろうかと、そればかり考えていた。
〈おわり〉
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