「ねえお母さん、これ何のにおい?」
「え……?」
問われて、母はそっと頬を赤らめた。
「栗の花のにおいよ」
「栗? へエ~、変なにおい」
「そうね……」
いやというほど充満する匂い。それは、近くの家に植わる大樹からのものだった。
「あそこの木の白いお花。あれよ」
窓から指をさす。娘はそちらを見て、無邪気に頷いた。
「すごいにおいがするねぇ」
“すごいにおい”――、確かにそうだった。風に乗って運ばれてくるそれは、こちらの家の中にまで充満した。昼と言わず、夜と言わず。
そしてそれは、寂しき女の独り寝を脅かした――。
「……ン……ン……!」
夜ごと我が身を慰める。かれこれ三日。あの花の香りをかいでからというもの。
「ンッ……ンハ……ッ!」
シーツの上で足をくねらせ、とめどない身悶えがやるせない。秘花はあぶくを吹いて開花し、濃密な匂いと絡み合う。雄々しい匂いだ。“彼”のために、わざわざ窓が開けてある。
「ンウゥ……ンンアァ……」
鼻孔いっぱいに吸い込み、かつ全身を彼に預ける。外気の冷たさも刺激的だ。裸になった彼女はそれ自体に興奮もしつつ、である。その横顔に、昼間の母の面影はなかった。
「秋彦さん……」
切なげに声に出してみる。夫と離ればなれの暮らし。これが切なさへのせめてもの抵抗とばかりに。
「秋彦さん……」
自分で腿を持ち上げ、大きく開いてみる。顔から火が出る思いだ。だがやはり、そこへのしかかってくる重みはないわけで、報われない妻は思い出だけを相手にするより仕方がなかった。
「アアァ……」
ヒクヒクと肉の花弁がうずく。長い夜の狭間で、やがて彼女は疲れきって眠った。
*
「ほら、あの白いお花よ」
娘の手を引いて、母は語った。家の裏側の道を行けば、すぐにその木のそばまで寄ることができた。
「かわいいお花ねえ」
彼女は言った。白い房が鈴なりに垂れ下がっている。まるで、白いしぶきが勢いよくほとばしっているようだった。彼女は話しながら、頭では別なことを思い描いていた。近くに来ると、生々しい匂いはいよいよきつくなる……。
「あれはねえ、みんな雄花なんですよ」
すぐ後ろで声がして、親子はびっくりして振り返った。見れば、一人の男がにこやかに立っている。顔見知りではなかった。
「雌花はねえ、あの花の中にまぎれてちょっとだけあるんです」
おせっかいな彼は、こちらに近寄りながら得意げに話しだす。
「ほら、見えるかなあ?」
そう言って、娘に合わせてしゃがみ込む気遣いもみせる。
「あのフサフサした白い花のね――」
それにつりこまれて、娘も自然と彼の説明に聞き入りだした。その指先の指し示す方へ、懸命に目を凝らす。“雌花”とやらを探しているのである。母もそのそばへ寄って行った。
「どれどれ?」
自分も娘に高さを合わせてしゃがみ込む。しかし、彼女は探し当てるまでに至らなかった。彼女が近づくやいなや、その横に立ちあがった男のせいだった。顔のすぐそばで、“匂い”がまた一段ときつくなった、気がした。
男のレクチャーは、早くも次のステップに移っていった。母を残し、二人は前方の幹へと寄っていく。やがて、「大きい!」だの「硬い!」だの「黒い!」だのと叫ぶ娘の声が聞こえだす。一体どんな解説をしているのか。母はぼうっとして見つめるだけだった。依然うずくまったまま、先ほどの視線の高さで。
「そっちの方の木も見に行っていいよ」
男は言った。彼はこの庭の持ち主だったのだ。娘は元気に走っていく。
「――すみませんでした」
母は勝手な訪問を詫びた。
「いえいえ、こちらこそ強烈な臭いで申し訳ないです」
男は気さくに笑った。
「好き嫌いの分かれる匂いですからねえ」
そう言って目を細める。
「奥さんは……お好きですか?」
「え……」
女はすぐに答えられなかった。もっとも、彼の目には何らの不埒さも映っていなかった。
やがて駆け戻ってきた娘に連れられ、彼女もまた奥の方の木々を見に行った。そして二人が元へ帰って来た時、男はいつ用意したものか、ある土産を持って待っていた。
「栗の花は独特な匂いがしますからね、こういう、香水なんてものも作ってみたんですよ」
そう言って彼が差し出したのは、幾重にも丸められたティッシュペーパーだった。
「ここに染み込ませてありますから、良かったら本物と比べてみて下さい」
その言葉にいち早く飛びついたのは娘だった。少女は、そのやや重みのある湿った紙束と、手折られた花々を交互に鼻につけて熱心にかぎ比べだした。
それを見て、妙な予感にとらわれだしたのが母である。彼女の心臓は、ある邪推を伴ってにわかに鼓動を早めていった。しかし、それでも娘から手渡されれば受け取らないわけにはいかない。
「ほんとね……栗の花の臭い……」
彼女は恐る恐ると鼻に近づけながら感想を言った。ティッシュペーパーの湿り気は、じっとりと、そしてずっしりと手の平に染みた。
間もなくそれは、再び娘の手に奪い返された。少女はそれをポケットに入れて、意気揚々と帰っていく。その後を追う女はぽおっと頬を赤く染めて、男の腹の下の方に視線を落としつつ、曖昧な挨拶をして帰った。
*
それから数カ月が経った。
「わあ、栗だ!」
母が持ち帰って来たかごの上を見て、娘は歓声を上げた。
「おお、大量だなあ!」
夫も、待ってましたとばかり嬉しそうに言う。
「ちょっと待っててネー」
妻はツヤツヤした頬に満ち満ち足りた笑顔を浮かべて台所に立った。その足へ、待ちかねた様子の娘がしがみつく。すると、その直後だった、彼女が素朴な調子でつぶやいたのは。そのセリフは、母の手から栗のまとまりを転げ落ちさせた。
「あっ、お母さんから、栗の花のニオイがするよ」
〈おわり〉
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