「――生きてる……」
それは率直に感じた奇跡だった。辺りは薄暗く、時間と場所の感覚がない。現実味のない肢体を、ただ横たえている。
眼だけを動かして物音の方を見れば、冷蔵庫から出した牛乳パックに、そのまま口を付ける野人の姿があった。精悍な体つきはサバンナに立つ獣のよう。その胸に白い筋が幾つか流れ落ちる。
陽子は足を動かそうとした。動かない。腕を動かそうとした。動かない。ただ辛うじて指先が動くばかり。捕らえられた獲物に、もはや運命から逃れる力は残っていなかった。
彼は間もなく戻ってきた。オスである。見紛う事なきオスである。その証たるや、容易に鎮まることはないらしい。隆々と、且つ悠々と敗北者の前にそそり立つ。
「(また……される……)」
恐怖というよりも諦観。半ば他人事のように自嘲する陽子。その股の間に、ロクンはどっかと腰を下ろした。
「(また……)」
気が遠のいていく。そう、その刹那は正気を保てない……。
――その日、それは唐突に起きた。夫と息子を送り出し、平穏で退屈な日常が始まるいつもの朝、のはずだった。
「ロクン!?」
洗濯カゴを探っていると、背後から突然組み付かれた。段違いの上背と野太い腕が、振り返ることすら許さない。
「どうしたの? ロクン」
自身落ち着こうと、ひとまず優しく問いかける。彼は黙っている。いつものことだ。そう、いつものこと、だが、しかし……
「ロクン……?」
ただならぬ雰囲気に陽子の足はすくんだ。
まさか、という思いはある。むしろ、彼の孤独と寂寥にこそ思いを馳せる。いや、そうに違いない、甘えたいのに違いないと思い込もうとする。
だが、本当は分かっていた。早々に気付いてしまっていた。なぜなら、当たっているからである。紛れもない証拠が、当たっているのである、背中に。あの日見た、あれ。静志がぶら下がって戯れていた、あれ。あれ、アレ、あの隆々としたアレだ!
「離しなさい!」
強硬に逃れようとしたが、これは端から成算がなかった。逆に押し倒され、床に組み伏せられる。今や意図は明白であった。
「(信じられない!)」
否、信じたくないのだ。ロクンは図体こそ巨大だが、接すれば接する程、年相応かそれ以上に素朴な少年だと近頃特に強く感じていたから。
「(信じられない!)」
別の角度からも疑った。こんな事態になることを一体予想しえただろうかと。ほかならぬ自分がだ。十代・二十代の頃ですら、このような場合を自分のことに置き換えて想像しはしなかった。
「イヤッ!」
ようやく芽生えた危機意識が、遂に彼女を本気にさせた。もう迷いなく本気でもがく。たとえ相手を傷つけることになってもやむを得ないと。しかし、それの虚しさはやはり自明だった。火事場の馬鹿力とて当てにはならない。
「(何これ……どういうこと……)」
無意識に浮かぶ涙。それは、恐怖からか、屈辱からか。絶対的に敵わぬ力の前に不本意にも浮かぶ涙。
「(男……!)」
奴の名は男。
「『なあ……それよりさあ……』」
男はセックスをしたがるもの。いつでもそうだ。
「『駄目か? 今日も……』」
実にくだらない。くだらないことだ。男も、セックスも。不必要なのだ、自分にとって。
結婚も将来も、なんてくだらないだろう。このまま家事に勤しみ、子育てに明け暮れ、先行きは決まっている。もはやこれから、何か大きな転機があるわけではない。
陽子の頭は混乱していた。窮地に立たされ返って研ぎ澄まされた神経が、心の闇を乱反射して飛び回る。
友人のこと、学生時代のこと、これまでの思い出が走馬灯のように一瞬間で視界をよぎった。何かに対する渇望、無い物ねだり、尽きせぬ憧憬、ノスタルジー……。陽子は逃げ場のなさにうなされ、死に物狂いでもがいた。
しかし、そんな憂悶もわずか一瞬にして終わる時が来た。全ての残像を消し飛ばし、たった一つの黒い像が占拠していく。それはまさに、あの日見た黒棒の姿にほかならなかった。
「や……め、て……!」
ここへ来て現実のものとなった絶望が、陽子の声を上ずらせる。縛られたわけでもないのに、押さえつけられただけでどうあっても身動きできない。もう、逃げられない。
あの先端が秘所に当たる。彼女は見ていられなかった。依然抵抗を続けつつも、歯を食いしばり、目を固く閉じる。それは銃口を眼前に突き付けられた人に似ていた。
「ぐっ……うっ……!」
涙と鼻水がこぼれる。その縮こまらせた身の内へ、ロクンは厳然と入ってきた。きつく締まった割れ目の力もなんのその、その門を剛直の形だけでこじ開け、後はいともスムーズに侵入していく。
入り出すと一気だった。僅かも停止することなく、そのまま最奥へ激突する。それは奥も奥、通常なら考えられない本当の行き止まり、子宮の奥の壁だ。中途から圧力で彼女の腰は浮かされ、このための角度をつけていた。
「が……っ!」
陽子の目から光が消えた。その刹那は正気を保てない。内臓全部、喉まで陰茎に占領された感じ。
このたった一撃で、あらゆる経験、思想、感情が無力化した。屈服、まさに屈服。陽子はロクンに屈服した。
〈つづく〉
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