目を開けると知らない天井があった。視線を動かせば、デザイナーズ家具らしいものが整然と並ぶインテリアの見本の様な部屋。
「(ここは……?)」
ミナミはぼんやりとした頭で記憶を辿った。だがどうしても、タイガとヌマタに便所で弄ばれて以降の経過を思い出せない。
上体を起こしてみる。ひんやりしたシーツの上で、ふくらはぎが心地よい。そこはベッドの上だった。身には、かなり大きめな白のカッターシャツ……
と、その時、部屋のドアが開いた。
「やあ、目、覚めたんだ」
にっこりと笑って入ってくる青年。彼は手にしていたカップをそっとテーブルの上に置いて、ベッドの端に座った。
「ちょうど良かった。どうぞ」
湯気と共に漂う入れ立てのコーヒーの香り。
ミナミは、しかしそれには手を伸ばさず、ただまじまじと相手の顔を穴が開くほど見詰めていた。彼の立体的な面立ち、柔和な笑顔、爽やかでいて強烈な印象を残すオーラ。彼女は確かに見知っていた。次第に瞳が大きく見開いていく。
「ジン……さん!」
思わず叫んでしまって、慌てて口を覆う。
それを見た彼は噴き出して手を打った。彼こそは今"抱かれたい男ナンバー1"と巷で持て囃される俳優、ミナミならずとも知らぬ者などない人気スターであった。
「すみません!」
平謝りのミナミを、ジンは手を振って制した。さらに続けて放たれた一言は、彼の気さくさ以上にミナミを驚嘆させた。
「ええっと、コウ君のお母さんでしたよね」
「えっ! あっ、はい!」
ジンが自分を知っていた! それは驚くべきことだった。確かに一度スタジオの隅で挨拶は交わしている。だがしかし、その時の彼といったら、ミナミ親子にほとんど一瞥もくれなかったではないか。
「(どうして?)」
そう不思議に感じても無理はなかった。しかし彼はむしろ嬉々としてコウの将来性を語ってみせる。今はただ、この国民的スターが一介の素人と対等に話していることに気を呑まれるばかりだった。
「コウ君は才能ありますよ」
ジンは語る。
「この前のシーン、タイガを喰ってたんじゃないかな」
思いもかけぬ持ち上げようである。ミナミはただただ恐縮だ。昂揚感で顔が真っ赤である。夢を見ているような感覚だった。
二人はしばらく語り合った。まずはコウのこと、そしてまたミナミのことにまで話は及んだ。次第にミナミの気もほぐれ、言葉数も増えていく。
とはいえ、スターに気後れしないで上手くやろうなどと、大それた野心を抱いていたわけではない。何しろ今日これまでの境遇である……
そう、そうなのだ。その身を顧みれば、カッターシャツ一枚。下着も付けていなかった。あの汚らわしい一幕からこっち、どんな風にここに至ったのか。ミナミの胸に、改めて不安と恥じらいが押し寄せてくる。気持ちがほぐれていくのに比例して。
このシャツは、サイズから推してジンのものだろう。まるで、急な雨に降られて家に転がり込んだ女が、急場しのぎでカレシの服を借りたようなシチュエーションである。だが実際には違うわけで、この髪が濡れているのは雨の所為ではなく小便の所為であるし、体にだって精液が、それこそ内側にまでこびりついているはずなのである。
そう気が付くと、ミナミはどんどん恐ろしくなってきた。そもそも着替えをさせられたこともそうだし、犯された体を見られ、ひょっとしたら臭いだって嗅がれたかもしれないと思うと。彼女は相手の顔を見られなくなってしまった。
すると、ジンが気を回して言った。
「あ、服はクリーニングに出したんですよ。その……汚れてたし……」
やはり事情をわきまえているらしく、明らかに言い淀んでいる。その優しさがミナミにかえって申し訳なく思わせた。ジンはさらに気遣う。
「ごめんなさい、なんか、勝手に……」
「い、いえ!」
慌てて否定はしたものの、ミナミは恥ずかしさで死にそうだった。すると、その空気を変えるべく、ジンが突拍子もないことを言いだした。
「で……それでね、着替えをさせようと思って……全然、ほんとそれだけの為ですよ。着替えの為にね、下着も……脱がしたっていうか……あ、ほんとほんと、いやらしい気持ちとかじゃなくて――」
急にわざとらしく、口数多く焦ってみせるジン。
「裸も……結果的に、結果的にですよ、まあ、見ちゃって……決して興奮とかは、別に……」
これだけモテそうなマスクをしていて、女の裸を見た位で焦るはずもないのに、真面目くさって純情そうにまくし立てる。そのギャップがおかしさを生み出す。
とうとうミナミは噴き出してしまった。あざといが、しかしどうしようもなく可愛らしい。そしてまた、わざとおどけて気を逸らしてくれる彼の優しさに、胸がキュンとなった。久しく忘れていた、乙女の感情だ。
彼女の笑顔を見てジンもにっこり笑う。
「まあ、ちょっとしちゃったけど……興奮。……ごめん」
二人の距離がぐっと近くなった。
「やっと笑った」
唇を近づけながら、ジンがささやく。その指先がベッドに突いたミナミの手にそっと重なる。
「あ……」
かすかに開いた女の口を、美男子のそれが塞いだ。極めて自然な流れだった。実際わけの分からない展開なのだが、理屈ではない。一つ部屋に男女が二人。当然の結果と言えた。
だが今は大きな負い目がある。ミナミは顔をそむけた。ジンは眉を曇らせた。
「ごめん……」
「違うの!」
男の詫びに、間髪入れず心情を吐露する女。げに恐ろしきはすれ違いなのである。
「その……シャワー、借りても……?」
言いながら頬の朱に染まるのが自分でも分かった。厚かましい要望だと思う。だがそれで、自分が何を気にしているのかを相手に伝えることはできた。
「あ、ええ、もちろん。さすがにぼくも、体までは洗えないからさ」
先程のおどけぶりに戻って、男が鷹揚に言う。女は照れ笑いを返しながら、案内を受け、小股でそそくさと浴室に向かった。
洗面所に入って後ろ手にドアを閉める。フーっと息を吐いた。まるで生きた心地がしない。今は現実なのだろうか。本当に、あのスターの部屋にいるのだろうか。ミナミはフワフワと宙に浮いたような感覚だった。
そんな思いで、ふと洗面台の鏡を見る。
「あっ……!」
やはり現実だった。そこに映っていたのは、化粧も剥げ、髪はボサボサのひどい年増女だった。
「(本当にこんな女を見て、優しくしてくれているの?)」
絶望感が一挙に来る。シャワーを浴びれば化粧は完全に落ちる。いわゆるスッピンだ。これと今とどちらがいいかなんて、相当低次元な択一問題に思われた。
「(何カッコつけてんだろ、わたし……)」
そもそも完璧に綺麗に着飾ったところで相手にされる訳もない存在だ。ミナミは哀しく笑うと、開き直って浴室に入った。
「ハァー……」
温かい湯を浴びながら、ため息をつく。浴室もオーダーメイド風の斬新な造りになっていた。さっきの部屋といい、まるでモデルハウスのような家である。実際に住んでいるのか疑わしい程だったが、使いかけのシャンプーとリンスに辛うじて生活感を見出せた。
それを使わせてもらって髪を洗う時、ミナミはかすかに嬉しさを感じた。彼と同じものを使える喜び。家族か恋人並の近しい距離感である。
他方で、やはり不安の方が大きい。
「(この体……)」
落ち着けば落ち着く程、これまでのただれた性が心に蘇ってくる。今日も今日とて二人の男に弄ばれ、現に複数回も子種を仕込まれたわけだ。その足で別の男、いや男だなどと他の者と同類に語ることさえ勿体ないような優しい人の前に出るなんて、なんという恥知らずであろうか。彼女にも今更ながらに良心、いやプライドはあった。
ミナミは気づいていた。さっきの間に、早くも生温かいつゆが股間から湧き出していたことを。心底見下げ果てた女だと、我ながら思った。
「(せめて、ちゃんとしなきゃ)」
たとえ軽蔑されていたとしても、助けてくれた人に誠実に応じよう、それが正しいことだと彼女は心を決めた。
浴室から出て髪を乾かすと、改めてカッターシャツを見にまとい、しっかりとした足取りで元の部屋に向かった。その横顔に、先程までの浮ついた所はなかった。そう、いつもコウの付き添いで仕事現場に出る時のような、毅然とした態度だった。
「ありがとうございました、シャワーまで……」
ドアを開け、はきはきとしゃべり出したミナミ。しかし、それを最後まで言い切ることは出来なかった。待ち構えていたジンにいきなり抱きしめられたからである。
「あ、あの……」
ミナミの全身から一遍に力が抜けていく。同時に、カーッと胸が熱くなる。
「待ってた、ずっと」
ジンは、急に切なげな声で恋人に語らうと、また柔らかい唇を重ねた。
その広い胸に身を委ねて、女の正義は跡形もなく消え去っていた。
〈つづく〉
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