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「どうも、お待たせしました」
部屋に入るなり、にこやかな笑顔で服部は言った。その手に提げていた鞄を持ち主に返す。
「ああ、どうも……」
疲れた表情で前原はそれを受け取った。見ようによっては、少し頬がこけたようである。
「これで取り調べは終わりです。自由の身ですよ」
「そうですか」
前原は軽く会釈すると、出口へ向かって歩き出した。すると、それを呼び止めて服部が言った。
「もう遅いですからね、お送りしますよ」
「え、いえ、大丈夫です」
「いやいや、ここからじゃタクシーもつかまらないし。そう言えば、もう電車も終わってるなあ。生憎田舎なもんでねえ」
服部はほとんど陽の落ちた窓の外に目をやった。
「はあ……」
前原はちょっと考えてから、
「じゃあ、お願い出来ますか」
と、不承不承頼んだ。これ以上関わり合いになりたくなかったが、致し方ない。
「それか、今晩は一泊していったらどうです? 柘植田(つげだ)まで出ても、もう乗り換えはないでしょうし、泊まる所もね」
柘植田とは、一番近くのターミナル駅で、ここで乗り換えてさらに本線を目指す。もっとも、柘植田自体がこの町とさほど変わらない田舎だし、服部の言う通り、そこまで行っても今日中に帰れる可能性は低かった。駅前にビジネスホテルなどもちろんない。
しかし、前原は、彼の提案のほとんど初めの方から首を横に振っていた。
「いえいえいえ、結構です。行ける所まで行って、なんとかします」
「そうは言ったって、柘植田に泊まるとこなんかないよ。そうだ、金光さんとこに泊めて貰ったら」
「と、とんでもない」
ありがた迷惑な好意に、前原は辟易した。
「どうして? あんた、顧問弁護士なんだろ」
「いや、それはなんというか、ねえ?」
彼は言葉を濁し、あまり普段はやらない下卑た笑いで誤魔化した。相手の思考レベルに合わせたつもりである。
「ははあ、そうか。こりゃ失敬。ちょっと意地悪だったかな」
察した風でニヤリと口角を上げながら、服部はサービスで同調してやった。
「じゃあね……そうだ! 旅館に泊まっていきなよ。知り合いの所が一軒だけあるから」
「いえいえ、もうそんな」
「大丈夫だよ。誰も泊まってないし。バスもあるから、明日の朝一番で送ってもらうといい。今日は色々あったから、温泉にでも浸かって、ね」
前原がどんなに固辞しても、やたら頑強にこの警官は勧めてくる。ただどんなに世話を焼かれても、今度ばかりは断るつもりだ。こんなことをしてダラダラと居残っていたら、またぞろどんな憂き目に遭うかもしれない。
だが、彼が食い下がるのも聞かずに、服部は出口の方へ向かった。
「うんうん、まあまあ、とりあえず車回してくるから、もうちょっと待っててもらえる?」
「いや、わたしも行きます」
前原はしがみつかんばかりに間を詰めて、出口に近寄った。この場にまた残されるというのが、不安で仕方なかったのである。
ガラガラ、と服部が戸を開ける。すると、そこに立っていた慶介ら三名とばったり出くわした。
「おう」
至近距離でぶつかったから少し面食らった風で、服部が挨拶する。続いて、いかにも気安く彼らに指示した。
「ちょっと車回してくるから、お前ら、この人見ててくれるか」
そう言い残すや、服部は早くも駆け出した。
前原の顔がみるみる青ざめていく。
「お、お巡りさん! こいつらが……」
上ずった声で叫んだが、時既に遅し。服部が角の向こうに消えるのと、竜二によって彼が室内に押し戻されるのとほとんど同時だった。
「な、何をする!」
よろめきながら、前原は虚勢を張った。
「なんもしねえよ」
「ていうか、おっさん、まだ居たんだ」
若者らは口々にせせら笑うと、ぐいぐいと前原に迫ってゆく。前原、後ずさって背筋を凍らせた。冗談ではなく、命の危険を感じた。
「知ってるぜ、おっさん。校内でセックスしたのバレて、捕まったんだろ」
クスクス笑いながら、浩樹がなじる。それを聞いた前原、思わず目を見開いて相手を見た。その反応を見た三人は、一斉にゲラゲラ笑う。
「お、お前ら」
キッと睨み返し、前原は腹に力を込めた。
「お前らの所為で……」
見紛うはずもない、愛人に対して今朝方ひどい仕打ちをした三人だ。さらにその後で仲間を増やして……
「(こいつらさえいなければ!)」
カッとなって、彼は力強く一歩を踏み出した。
「おいおい、どこ行くんだよ」
そう咄嗟に手を伸ばした竜二の脇を辛くもすり抜け、前原は走り出していた。こいつらと言い争っていてもらちが明かない、今はとにかく何も考えず、この場から去るのみだ、と。
「ちょ、待てよ」
三人が追いかけてくる。前原は廊下へ出ると、服部の去った方へ一目散に駆けた。見張りをしていたはずの男、比嘉の姿は見当たらない。後ろの奴らにやられたのだろうか、そんな疑念が頭をかすめた。また、不良らが自分の取り調べを知っているらしいことも気がかりではあった。だが今は考えない。逃げることに一決している今、彼の思考はむしろスムーズだった。
階段にたどり着く。そこを一気に駆け降りる。服部が見つからなければ、もう車のことなんかいい、走って逃げよう、この町を出よう、そう思った。
そう思った矢先だった。一階に降りた彼は、思いがけぬものに出くわして足を止めた。
「あっ!」
それは、金光の息子、佳彦だった。向こうもびっくりして、立ちすくんでいる。家に出入りしている関係上、無論顔見知りの仲だ。
ほんの一瞬躊躇した彼だったが、すぐに使命を思い出した。辛うじて愛想笑いを浮かべて佳彦に頷くと、そのまま廊下を走る。冷静であったならば、少年が何やら恐怖に引きつった顔をしていたことに気付いただろうが、今そんな余裕はない。なぜ佳彦がここにいるのかも疑問に思わなかった。後ろから、階段を走り下りる足音が迫る。
「(どっちだ!)」
思いがけぬ出会いの為に、彼は狼狽して行き先を見失っていた。途中、妙に消毒液臭い場所に差し掛かったが、それが有紀の粗相の跡地だとは知る由もない。
「アッ!」
ツルリと滑って、彼は転んだ。床が僅かに濡れていたようだ。彼は必死に両手をついて立ち上がると、なおも駆けた。
間もなく、エントランスに出た。そこは、本日最後の残照を集めて、安堵の光をたたえているようだった。
「(やった!)」
歓喜しながら、靴箱の陰を曲がり玄関の方へ行く。そのまま、ほとんど体でぶつかるようにドアを開ける。つもりだった。
が、その寸前で彼は気づいてしまった、ガラス扉の向こうに、シャッターが下りている。どうする? ドアの施錠を解き、シャッターを開けるか。それは自力で持ち上げられるのか。開閉スイッチを探すか。
「(くそっ!)」
別の出口を探す方が早いだろう。そう彼が判断した時、その一瞬の逡巡が彼の明暗を分けた。
振り返った時、それはゆっくりと、左から視界に侵入してきた。のそりのそりと、男の影。その向こうにも男。そして、その間に、うずもれるようにして、女、らしき物。
「お……」
手前の男がこちらに気付いた。が、彼が何か対応するよりも先に、右から現れた一団が、その注意を引いた。
「よっ」
先頭の慶介が彼らに呼びかける。汗だくの前原に比して、追跡者らの誰も息ひとつ切らしていない。
「よお」
女を介助する一人、すなわち鎌先も、慶介らに応じた。
両組の再会を目の当たりにしながら、逃げ場を失った前原はただただ硬直していた。
「あ……」
僅かに漏れ出たその声音は、ただ唸ったのではない。本当は、かつて己が愛したその人の名をつぶやくつもりだったのだ。しかし、彼にはそれが憚られた。そのあまりの変貌ぶりに、人定の自信を失ったからである。だが、ほかに該当する人間など居そうもないわけで、彼が呼ぼうとした名こそ、それの名である蓋然性が高かった。すなわち、有紀、と。
女はうなだれて、その上髪の毛が影になり、その表情を読み取ることが出来ない。しかも、両脇の男らに肩を借りないと、立っている事さえままならない様子だった。
「(ま、まさか、もう……)」
最悪の場合を思いつき、前原は恐怖した。
〈つづく〉
〈現在の位置関係〉
▼正面玄関
有紀、前原、慶介、浩樹、竜二、鎌先、沼尻
▼教室A
俊之、克弘、祥吾、雅也、恵太、優斗、袋田、藪塚、矢板、小林、羽根沢、森岳
▼運動場
服部、比嘉
▼廊下
佳彦
▼打ち上げ会場
花村、島田、鈴木、金光
▼帰宅
高橋、豊、聡、翼、清美、瑞穂
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