破
「まあ!」
そう妻が驚いた声を上げたので、賢次も思わず顔を上げた。折しも、あれほど強かった日差しを急速に広がった厚い雲が遮った時、縁側から中を覗く人影が畳の上に闇をもたらしていた。
「兄さん!」
賢次は狂喜して西瓜の種を飛ばす。噂をすれば影と言うが、話題にも上らぬうちからヌッと現れ出でた兄である。
彼はその社会的に不安定な身分と同様、今日もまたつかみどころのない怪しげな扮装をしていた。東南アジア風の派手な色のシャツ――但しその表面はほこりっぽくくすんでいる――や、よれよれのハンチング、足には雪駄……。
ぱっと見では何を生業にしている人か分からない格好だ――もっとも、実際その通りの生活なのだから実態に即してはいたが。
「お茶入れて来ますね」
妻は笑顔を作って立っていったが、内心不機嫌であることが賢次には明らかだった。彼女としてみれば、兄がこうやって唐突に、しかも庭からずけずけ入ってくる所も腹立ちの要因なのであろう。いかに兄弟といえども、ここは他人の家なのだから節度をわきまえろということである。
だが、いくら妻が不満を抱こうともこと兄の前では意味をなさない、それが賢次だ。彼は子供のようにはしゃいで兄を迎え入れるのだった。
兄が縁側に上がると間もなく、大粒の雨が降り出した。
「やあ、ちょうど良かった」
彼は言い、二人は笑い合う。親しい彼らにとっては、どんな現象も話の種となり会話が弾むのだった。
加えて兄は漂々と世を渡る人の常として非常に口が立つ。あるいは、達者な口先の才故に遊民生活が許されるというべきだろうか。その晩の食卓も彼の講演会だった。
だが、妻には心楽しまぬ時間だったようで、当然のように彼が泊っていくことと決まった時も、彼女はさりげないながら早くも懸念を表明したものだ。
「いつ頃までいらっしゃるのかしら」
それは賢次にも分からぬことだったが、むしろ分からなくても良いことだった。兄ならばいつまでいてくれても良かった。そんな彼の希望が届いたものか、実際兄はその翌日もさらに翌々日も出ていくそぶりを見せなかった。
妻の不安が的中したわけである。彼は金の無心こそしなかったが、朝晩きっちりと食事をし、彼女の手を煩わせたものだ。さても彼女にとっては厄介極まる話である。
何しろ相手は天敵ともいうべき人物なのであるから、そのうち堪忍袋の緒が切れるかもしれない、夫はひそかに憂えていた。
ところがそう思いきや、彼女も慣れたのか、あるいはようやく彼の美徳を解したものか、徐々に不満を口にしなくなり、ついにはぱったりと陰口を言わなくなったのである。人とは変われば変わるものだ。賢次は喜んだ。
ある時、
「あなた……」
深刻な顔をして妻が話しだしたことがあった。賢次は、やはり来たか、と身構えたものだったが、結局全然関係のない話で終わって一安心した。そんなこともあった。
また彼女の変化は次のような場面にも表れていた。
ある日、賢次は会社から自宅に電話をかけた。もちろん妻が出た。だが彼女は妙に息が上がっていた。問えば、いわく、
「ちょ、ちょっとお掃除の最中だったのよ」
ははあ、なるほど、雑巾がけか窓ふきか、あるいは押入れの整理か何かをしていて、それから慌てて電話に駆けてきたんだな、と彼は一人合点した。
と、ふいに、
「ア……お、お義兄さんたら……」
電話の向こうでこちらをはばかるように妻が言う。賢次は聞き逃さず、
「兄さんもそこにいるのかい?」
と尋ねた。すると、間髪入れずに兄が電話口に現れる。賢次は彼の声を聞き嬉しげに問うた。
「今日はどこへも出ないの?」
すると、兄は答えて言った。
「ああ……うん、出るよ……もうすぐ……出るっ……!」
この一件によって、賢次は自分がいない間も二人が平和に暮らしている様子を垣間見れて満足だった。彼が会社から帰宅する時、決まって兄は家にいたが、妻とだけでいる間家の中は殺伐としてやしないだろうかといつも気を揉んでいたのである。
帰宅時といえばある日、賢次が玄関に入ると、まるで電話の時と同じように息せき切って妻が走り出てきたことがあった。平生ならゆったりと奥から現れるのに、その日は些か取り乱しているような感じだった。
「あんまり暑いから、ちょっと行水をしていたのよ」
彼女はそう言った。確かに、裾の方の髪の毛が少し濡れていたし、首から鎖骨にかけて汗ばんだように水滴がついていた。それにしても、行水をしていたのならそれで、別にわざわざ出てこなくても良いのに、賢次はそう言ったが、泥棒が入ってくるかもしれないから、と言われて納得したのだった。
その日も兄は家にいた。賢次が部屋着に着替えた後、彼は風呂場から悠々と現れた。
「あれ? 兄さん、もう風呂に入ったのかい?」
賢次が尋ねると、兄は、
「ああ、行水だ。気持ちよかったよ」
と言って、台所に座った。賢次はそれを不審には思わなかった。彼は、自宅に風呂があることがちょっとした自慢で、それを兄が使うことに喜びを感じていたからである。その頃、まだ近所には風呂のある家が多くなかったのである。
兄は風呂のみならず、家にある物はなんでも遠慮なく使用した。そして、大抵家にいた。
いつぞや、賢次がひどい熱を出して珍しく会社を休んだ時も、たまたまかしれないが兄は家にいた。いや、いてくれたと言った方がいいのかもしれない。弟を心配し、寝室にこもる彼に度々言葉をかけに来てくれたものだ。
妻だってもちろんのことである。そうして、彼らは賢次をそっとしておいて、今やすっかり打ち解けたらしく、居間の方で二人くつろいでいるのだった。そのことは、便所に立った時にそちらの部屋から二人のひそひそ話が聞こえたことで確認済みである。
彼は熱に浮かされながらも、その状況を知ってほほ笑んだ。妻が兄を認めてくれたこと、そして、二人して自分を心配してくれることが嬉しかった。だから彼も、二人に余計に気を使わせないために、居間の方へは立ち寄らずに静かに寝室に戻ったのだった。
そんなことなどがあって、兄はすっかりこの家の住人、そして、弟だけでなく夫婦にとって大事な人となっていったのである。彼はこのことを歓び祝しこそすれ、不審や疑念を生じることなど一切なかった。何も。決して。
<つづく>[全三回]
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